ベンゼン環が登場したので、もうひとつ憶えていただきたいことを書いておきます。それは、「基」のついた場所による名前のつけかたです。図3には、ベンゼン環に水酸基( OH )とニトロ基( NO2 )がついた分子の構造式を描いています。どれもついている基は同じですが、ついている場所が異なります。このような分子を異性体(isomer)と呼びます。名前はどれも「ニトロフェノール」なのですが、異性体は化学的性質が異なるため、名前に区別をつけるほうが望ましいです。そこで、二つの基が、隣同士のものに「2-」もしくは「o-」(ortho)、ひとつ空けているものに「3-」または「m-」(meta)、ふたつ空けているものに「4-」もしくは「p-」(para)をつけて呼びます。たとえばこの場合は、それぞれ、「2-ニトロフェノール」もしくは「o-ニトロフェノール」(読み方はオルトニトロフェノール)、「3-ニトロフェノール」もしくは「m-ニトロフェノール」(読み方はメタニトロフェノール」、「4-ニトロフェノール」もしくは「p-ニトロフェノール」(読み方はパラニトロフェノール)と呼びます。これらは、ベンゼン環をもつ化学剤である嘔吐剤(第6章)、催涙剤(第7章)、無力化剤(第8章)を扱う章でおもに登場します。
ここでは有機化合物の基本となる元素である、炭素、水素、酸素について見てきましたが、それらに結び付くことで特徴的な性能を発揮するその他の元素については、第2章から第8章までで登場するごとに説明していきましょう。
本章の最初の節で、化学兵器は気体にして吸わせるのが基本だと言いましたから、本節では気体分子についても少し触れておきましょう。
固体が原子同士がくっついた状態で塊になっているのに対して、気体はばらばらになって自由に飛び回っています。ではその「ばらばら」とは原子がぼっちで飛んでいるのかというと、そういうわけではありません。それだと、「手」が、つなぐ相手もないままぶらぶらしていて、とても不安定だからです。水素、酸素、窒素、といった、一種類の元素でできている気体の場合、「手」をつなぐ相手は同じ元素、つまり同じ種類の原子同士で「手」をつなぐことになります。化学式で書くと、H2 、O2 、N2 、のようになります。同じ種類なら「手」の数も同じですから、「手」をあまらせずにつなぐことができます。このように、単一種の元素からなる気体分子の基本は、二つの原子がペアとなって分子を構成することです。くそぅ、リア充め…
ヘリウム、ネオン、アルゴンといった、周期表の右端の元素は、「手」を零と数えるので、「手」をつなぐ相手がおらず、ぼっちで飛び回っています。ぉお、同志よ…
また、例外的に、オゾン( O3 )のように、三つの酸素原子が結合して飛んでいる気体分子もあります。しかしこのような三角関係は不安定なので、そのうち通常の酸素ペアの分子( O2 )に分解します。
ところでこの気体分子は、とても興味深い性質を持っています。それは、「同じ条件(温度と圧力)のもとでは、気体の種類によらず、同一体積中に同数の気体分子が含まれている」というものです。これは、サルデーニャ王国の化学者であるロレンツォ゠ロマーノ゠アメデオ゠カルロ゠アヴォガドゥロ(Lorenzo Romano Amedeo Carlo Avogadro)が提唱したので、「アヴォガドゥロの法則(Avogadro's law)」と呼ばれています。具体的には、〇℃、一気圧で、二二・四リッターの体積中に、一モルの気体分子が含まれます。
この法則の肝は「気体の種類によらず」という点です。どんな気体でも、同じ条件にすれば、同体積中に同じ分子数となるわけです。どの気体も、たとえば二二・四リッターに一モル入っているならば、化学式がわかればその質量もわかることになります。水素は原子量は一・〇一で、分子はペア、H2 ですから、二二・四リッター(一モル)分の質量は二・〇二グラムになります。同様に酸素( O2 )なら三二・〇〇グラム、窒素( N2 )なら二八・〇二グラム、メタン( CH4 )なら12.01 + 1.01 × 4 ~ 16.05となり一六・〇五グラム、プロパン( C3H8 )なら12.01 × 3 + 1.01 × 8 ~ 44.11となり四四・一一グラムとなります。ぼっちのアルゴンなら原子量のままで三九・九五グラムになります。このようにして求めた一モルあたりの分子の質量を「分子量(molecular weight)」、あるいはより適切に「相対的分子質量(relative molecular mass)」と言います。
ここで注目すべきは、同じ体積での質量の比較なら、それは比重であって、化学兵器を使用するにあたってとても重要となる「空気より軽いか重いか」も、この分子量からわかるということです。空気の成分は、標準的には、窒素七八・〇八パーセント、酸素二〇・九五パーセント、アルゴン〇・九三パーセントですから、さきほどの分子量から計算すると、平均して、一モルあたり二八・九五グラムになります(より正確に、ほかの微量成分も含めて計算すると、二八・九七グラム)。これとさきほど計算したような分子量を比べれば、その気体が空気よりも軽いか重いか、つまり、その気体が放出されたとき、上空に拡散していくか、下のほうに溜まるか、がわかるのです。さきほどの例だと、メタンは空気より軽いので上にいき、プロパンは空気より重いので下に溜まります。室内にガスが漏れたとき、天然ガス(主成分はメタン)なら天井に近い窓を開け、プロパンなら扉を開けて箒などで掃いて外に出せ、と言われるのは、このためです。これから本書で気体状の化学兵器について考えるときは、常にこの分子量を頭に置いておきましょう。第2章から第8章の各章でも、個々の化学剤について、分子量を計算して空気より軽いか重いかを判断していきます。
ここで、二つの単位で表わされる単位の換算の方法を頭に入れておくと便利です。空気中の気体の濃度については、みなさんはよく「ppm」を目にすることが多いかも知れません。「ppm」とは、「parts per million」の略で、読んで字のごとく「一〇〇万分のいくつか」を表わします。ちなみに一般に「パーセント」と呼ばれているものも、「parts per cent」の略で、これまた読んで字のごとく「一〇〇分のいくつか」を表わします。いっぽうで、表1(22頁)に示されるように、濃度を「mg / m3」で表わすこともあります。この両者を換算できるようにしておきましょう。
例として、第2章に登場するホスゲン(分子量九八・九二)で計算してみます。。気体の場合、体積比で濃度を表わすのが通例で、これは分子数の比でもあります。これに分子量をかければ質量の比になります。1 ppmは一〇〇万分の一ですから、1 ppmのホスゲンと言えば、空気(〇℃一気圧で二二・四リッター中に一モル)に対して一〇〇万分の一モルあることになります。つまり、
1 ppm ~ 1 / 1,000,000 mol × 98.92 g/mol / 22.4 litter ~ 4.42 μg/litter
いっぽう、一リッターは一〇〇〇分の一立方メーターですから、
1 ppm ~ 4.42 μg/litter ~ 4.42 mg/m3
となります。一般に、分子量をMとすると、
1 ppm ~ M / 22.4 mg / m3
となります。
前節でも登場したようなさまざまな物質、とくに有機化合物を基本として、その構成元素を置き換えていくことで、新たな物質がつくられていきます。本書の主役である化学剤もそうです。
原子そのものは不動で、その組み合わせだけが変わっていくことで、物質の種類が変化することを化学反応と言います。構造式で見てみれば、登場する元素記号は同じ顔触れなのに、そのお互いの「手」のつなぎ方が変わっていることになります。
原子そのものを変えてしまおうと思えば、表面の電子をいじっているだけではだめで、その中心にある原子核を変えるしかありません。この原子核反応は化学の範疇ではなく、物理学の範疇になります。これについてはそれを取り扱った書籍(たとえば、拙著『核兵器』(明幸堂)とか! 宣伝、宣伝!)に譲るとして、ここでは、原子の内部に手を入れる必要がなく、表面の「触れ合い」の状態を変えるだけで済む化学反応は、原子核反応に比べてずいぶんと「お手軽」である、ということだけ述べておきます。この「お手軽」さが、化学兵器の開発の敷居を、核兵器のそれと比べて、はるかに低くしている主たる要因だからです。原子の表面の問題だけで済むならば、分子同士を接触させる、つまりもととなる物質同士を混ぜるだけで反応を起こさせる、ということを基本とするのが可能です。
化学反応で、もととは違った物質ができるということは、要するに「手」のつなぎ方を変えるということです。それまで握っていた手を放して、別の人と手をつなぐわけです。手のつなぎ方には「つなぎやすさ」というものがあり、今つないでいる手よりも「つなぎやすい」相手がやって来ると、そちらへと手をつなぎ変えます。これが、混ぜるだけで起こる化学反応です。原子にも、人間のように好き嫌いがあるのですね。
ところが、人間社会では、もっと好みの人があとから見つかっても、今の相手と別れて、となると敷居が高くなるもの。化学の世界も意外にそうで、最終的に望ましい形、より科学的に言うと「安定する形」になるとわかってはいても、現状の結合をいったん切ってからその形へと再結合するには、敷居が高いことがあります。この場合の敷居とは、文字通りの閾、エネルギーの閾のことです。エネルギーの閾であるならば、外からエネルギーを与えてやればこれを超えることができます。それが、温める(温度を上げる)という方法です。混ぜただけでは反応しにくい物質も、温度を上げることで反応が始まることもあります。今の相手と別れるために手助けしてやるわけですね。
また、温度や圧力を上げてやる方法は、閾を超えるエネルギーを与える以外に、そもそも接触の機会を増やしてやることも意味します。温度とは分子の運動エネルギー(密度)の平均値、圧力とは分子がほかの分子に体当たりするときの勢いを平均化したもの、ですから、温度や圧力が高いことは、分子が活発に動き回っていることであり、それだけ、ほかの分子と接触する機会が上がるからです。一般に「もてる」人というのは、多くの人と出逢う機会が多い人のことです。すでに結合している相手がいる原子でも、別の相手と出逢う機会が増えれば増えるほど、結合相手を替える可能性が高くなるというわけです。
化学結合の相手を変えさせる方法は、もうひとつあります。それは、触媒を使う方法です。触媒とは化学反応をより活発に行わせる媒介となる物質のことで、自身は化学反応しないため、化学反応式には出てきません。この触媒が具体的にやっていることは、手をつなぎ替える敷居を低くすることです。エネルギーで言えば、その反応が起こるエネルギー閾値を低くする役割があります。今付き合っている相手と別れやすくさせる「別れさせ屋」…ぃや、なんでもありません。
この化学反応の仕組みをもう一度見直してみると、人間が、原子ひとつひとつを手でつかんで、それを自在に組み合わせて別の化学物質をつくっているわけではなく、原料となる物質を混合して自然に組み合わせが変わるのを待っているだけです。温度や圧力、触媒を加えるなど、条件を整えはしますが、あくまでも「手をつなぎ替える」かどうかはその化学物質しだいです。この生成方法を頭に置いておくと、最終的にある化学物質を完成させるときに、その化学式に登場する元素を集めてしまえばそれでよい、というわけではないことが理解できるでしょう。結局は、自然に「手をつなぎ替える」ことで合成される中間生成物をつくっていく、という操作を何段階も繰り返すことで、最終的に目的とする化学物質を得るという、遠回りな方法しかないのです。化学兵器に限らず、化学物質の開発に手間がかかるのは、こういった理由によるものです。
また、この化学反応の仕組みは、化学剤の製造だけでなく、あらゆる場面で重要です。たとえばその化学剤が人体の組織に作用する場合も、人体がまさに化学物質の塊であるために、この化学反応によって働きかけるからです。また、生物兵器においても、病原体が人体の組織に作用する場合に、ミクロな視点では、化学反応によって働きかけます。ですから、この化学反応の仕組みを常に頭に入れたうえで本書を読み進めていただければと思います。
次章からは、それぞれの化学剤について個別に見ていきましょう。