はじめに
核兵器(Nuclear weapon)、生物兵器(Biological weapon)、化学兵器(Chemical weapon)の三つは、頭文字をとってNBC兵器と呼ばれるとともに、一般に、大量破壊兵器(weapons of mass destruction)に分類されます。これらが通常兵器とは一線を画す恐ろしさをもっていることに異論はないのですが、僕個人的には、「destruction」に「破壊」の訳語を充てることに違和感があります。というのは、核兵器は物理的な破壊を伴い、人だけでなく建物や設備や兵器も壊してしまいますが、生物兵器と化学兵器はそうではなく、物理的な破壊を伴わずに、「人間だけ」を選択的に攻撃するからです。ですから、「destruction」を「殺戮」と訳し、「大量殺戮兵器」とするほうが適切です。
しかし、注意していただきたいのは、「物理的な破壊を伴わないから(他の兵器に比べて)危険ではない」などとはまったく言えない、ということです。使い方次第で、人体にとっては、より深刻な被害をもたらす兵器です。むしろ、建物や設備はそのまま残して「人間だけ」を消し去るところに、根源的な嫌悪感を生じさせる兵器とさえ言えます。
生物兵器や化学兵器が核兵器と異なる点は、ほかにもあります。もっとも重要なのは、製造の敷居の低さです。もちろん、生物兵器も化学兵器も「家庭でつくれる」といったものではまったくありませんが、生物兵器は細菌を扱う医療研究機関で、化学兵器は化学製品製造工場で、それぞれ製造可能であり、そのどちらも、生物化学兵器には無縁な普通の国に存在する施設です。核兵器のようにほかではあまり使われないような特殊で巨大な専用の産業が必要というわけではありません。たとえば本文でお話しするように、日本では一宗教団体が化学兵器を製造して実戦使用したことがありますが、彼らに核兵器の製造は不可能です。
そしてこの例が示すように、一国の軍隊でなくともテロリスト集団が容易に扱えるという点が、我々にとってより大きな脅威となりうる、ということです。リスクは、「起こった場合の損害」に「起こる確率」をかけたもので評価しますが、核兵器に関しては、前者がとてつもなく巨大であるいっぽう、後者が、そもそも歴史上たった二度しか実戦使用されていないうえに、冷戦後はまずありえないほど低い確率となり、結果、リスクとしては低いものとなっています。しかし、生物化学兵器は、前者が核兵器に比べ小さいいっぽうで、後者に関しては、テロリストでも扱えるために、リスクはとても高くなっています。
生物化学兵器を、核兵器ではなく、銃器などの通常兵器と比べてみるとどうでしょうか。さきほどの「起こる確率」が極めて高いことから考えて、実のところ、銃器ほど人の命を奪ってきた兵器は、ほかには存在しません。それでは銃器に比べ生物化学兵器は恐るるに足らない兵器ではないかというと、まったくそのようなことはありません。このリスク評価以上に、さきほどお話しした「根源的な嫌悪感」を最大限に利用して、心理的効果を狙うことができるからです。つまり、実際に「起こる確率」が低くても、それ以上に、人々をパニックに陥れることができる兵器、それが生物化学兵器なのです。そのため、恐怖で人を支配するテロリズムには、うってつけと言えましょう。
では、それに立ち向かう我々はどのようにしたらよいのでしょうか。
テロリズムに対する最高の対抗手段は、「恐れないこと」です。テロリズムが恐怖を利用して人を支配しようとするのに対して、こちらが恐怖しなければ、その威力も大きく削がれるからです。そのうえで実務的に有効な対応策を用意しておくのです。そのどちらのためにも、相手が攻撃してくるその手段に対して、正しく知っておくことが必要です。「どのような攻撃かわからない」ことほど、恐ろしいことはないからです。本書は、まさにその知識を得る「きっかけ」となればとの想いから書きました。本書で興味を持たれた方々が、さらなる理解を求めて、より詳しい書籍を読まれることを願っております。
本書は、そんな生物化学兵器のうち、化学兵器にしぼって取り上げています。読者のみなさんが本書を評価していただけたとしたら、生物兵器のほうも本シリーズで取り上げたいと思っております。
また、本シリーズの前巻である『弾道弾』では、開発や運用の歴史などにはほとんど触れず、その原理やメカニズムなどの技術的な解説をその中心に据えましたが、本書では、テーマに鑑み、開発史や実戦使用例についても詳しく記述することとしました。そのため、前巻とはずいぶん異なった印象を受けられるかも知れません。本シリーズは、このように、テーマに合わせて、どちらに重きを置くかを、各巻ごとに調整していきたいと思います。
化学兵器に関する書籍は世にたくさんあるのですが、どれも、化学的性質、使用方法、開発史、使用例などを、ごちゃ混ぜにして書いているものが多く、僕はそれがいつも不満でした。そこで本書では、それらをちゃんと分けて系統的に解説する構成としました。ですので、前半は『兵器の科学』シリーズらしく「教科書」的なつくりに、後半は趣向を変えて「読み物」的なつくりになっています。読者のみなさんには、興味のある章から、お好きな順でお読みいただければ、と思います。そうしてお読みになられていって、あとで読んだ部分がさきに読んだ部分とつながり、「そういうことだったのか!」と膝を打つことになれば、著者として最大の喜びであります。