本章では、化学兵器の実戦使用例について扱いますが、最初に、化学兵器を使用したことがある国(図49)と、国内で使用されたことがある国(図50、政府軍が自国内で反政府勢力や自国民に対して使用した場合もこれに含みます)とを示した図を紹介しておきます。
ここでは、警察組織が催涙剤や無力化剤などの非致死性化学兵器を用いて行った一般的な治安出動は含まず、鎮圧目的であっても致死性の化学兵器を用いた場合や、非致死性化学兵器でも軍隊が使用した軍事目的の場合を入れています。戦争で使われた場合は、国よりも国土で示してあります。たとえば、フランス軍がベルギーの戦線で「使用された」(後述の世界大戦)場合、ベルギーのほうを示してあります。同様に、世界大戦の東部戦線でドイツ軍がロシア軍に対して使用した場合も、場所はポーランドであったため、ポーランドのほうを示しています。また、テロや暗殺も入れていますので、たとえば軍事的に化学兵器で本国を攻撃されたことがない連合王国も、国内で化学兵器による暗殺が行われた(410頁)ため、「使用された国」に含めています。ソヴィエト連邦はアフガニスタン紛争で化学兵器を使用した疑いがありますが、使われた可能性がより高いのは生物毒であり、一般に生物毒は生物兵器に分類されますので、本書には含めていません。
また、日本が化学兵器を使用した時期(日中戦争)には、朝鮮半島は日本の一部でしたが、この図では含めていません。台湾は、やはりその時期に日本の一部でしたが、これも入れていません。そして、「使用された」(後述の霧社事件)のほうには入れてあります。
これを見てどう思うかはみなさんそれぞれ違うでしょうが、僕個人的には、ほかの兵器に比べてかなり少ない、という印象です。たとえば戦車の使用国だと世界の大部分が塗りつぶされてしまいますし、小銃の使用国だと塗りつぶされない国を探すのが大変なほどでしょう。それと比べると化学兵器の特殊性がよく顕われています。いっぽうで、よく比較される核兵器が、使用国も使用された国も、人類の歴史上それぞれたった一か国だけ、ということと比べると、化学兵器は相当広い国々に「拡散」してしまっている、とも言えます。
この図を頭に入れたうえで、以下本章では、それぞれの場合でどのように化学兵器が使われたのかを見ていきます。ただし本書は戦史を扱った書籍ではなく、あくまでも科学技術に焦点をあてた書籍ですので、その面をより深く理解するために実戦使用例を挙げている、と考えてお読みいただければと思います。
世界大戦は、近代的な化学兵器が初めて本格的に使用された戦争としても名高いです。とくに、初めて致死性の化学剤が使用されたイーペル(Ieper)の戦いは、化学兵器に関する書籍では必ずと言っていいほど登場します。しかし実際にはその前から化学兵器は使用されていました。本書では、この世界大戦における化学兵器史を、使われた化学剤によって三つの時期に分けてみます。
まず最初に行われたのは、非致死性化学兵器の使用です。化学兵器といえばドイツという印象がありますが、意外にも、世界大戦で最初に化学兵器を使用したのはフランスでした。開戦の翌月の一九一四年八月に、シャンパーニュにて、早くも、催涙剤のブロモ酢酸エチルが使われています。これは手榴弾に充填して投擲したもので、フランス警察が暴動鎮圧用として一九一二年から使っていたものでした(第7章138頁)。戦争で使うとなると暴動鎮圧用とは比べものにならないほど大量に消費するのですが、フランス工業界では臭素(ブロモ、の部分)が不足していたこともあり、化学剤をクロロアセトンに変更しました(一九一五年三月より、やはり催涙剤)。
対するドイツは、一九一四年一〇月から、西部戦線のヌーヴ・シャペルにて、連合王国軍に対して、嘔吐剤のジアニシジン(dianisidine)を砲弾に充填して使用しました。その後、一九一五年一月三一日に、東部戦線(ポーランドのボリムフ)にて、ロシア軍に対して、催涙剤である臭化キシリル(xylyl bromide)を充填した砲弾を撃ち込みました。その数は一八〇〇〇と膨大でしたが、真冬であったために臭化キシリルが凝固してしまってほとんど効果がありませんでした。
このように、非致死性の化学兵器を互いに使用し合ったのが最初の時期です。
次の時期を画するのが、一九一五年四月二二日、西部戦線、ベルギーのイーペル(Ieper)での戦いでした。本書でも何度か触れている、世界初の近代的致死性化学兵器の本格的実戦使用です。ここでも繰り返すと、使用したのはドイツ軍、その対象はフランス軍(ならびにその植民地軍)と連合王国軍(ならびに英連邦軍)でした。使用されたのは、もっとも単純な化学物質である塩素で、総重量一二〇トンを、五七一三本のボンベから流すという、散布方法も単純なものでした。それでも大きな効果を上げ、フランス軍の被害は、中毒者一四〇〇〇人、死者五〇〇〇人、捕虜二四七八人でした。ただしドイツは、これを契機に一気に攻勢をかけることをしなかったので、この大戦果は戦局に大きな影響を与えませんでした。ドイツ軍首脳陣も、これほど大きな効果を上げるとは思っていなかったので、化学兵器使用後の攻勢の準備をしていなかったのです。この化学戦を指揮したハーバーは、それに対して大きな不満を抱いたそうです。しかし、初めて使用するこの兵器に、誰もが慎重になるのは当然です。現場の兵士としても、化学剤によってどれくらい汚染されているかわからない地域に突撃していくのはためらわれるでしょう。
この直後、同じイーペルの戦線で、四月二四日、五月二日、五月五日の三回、ドイツは塩素による攻撃を仕掛けました(最初の一回はカナダ軍に対して、残りは連合王国軍に対して)。八月六日には、東部戦線のオソヴィエツ要塞(ポーランド北東部)を防衛するロシア軍に対して、ドイツ軍が塩素を用いました。
連合王国軍が最初に塩素を使用したのは、一九一五年九月二五日、フランスのロースでの戦いで、でした。この際には、イーペルにおけるドイツ軍と同様、ボンベから放出したのですが、ここでこの方法の欠点が顕著になります。風は気紛れであるため、うまく敵陣側に吹かなかったばかりか、自陣側に吹き返したのです。さらにドイツ軍からの砲撃でボンベが壊れ、その場で塩素が噴き出すなど、使用したほうが散々な目に遭いました。なお、ここで使用されたボンベは五五〇〇本、塩素の総重量は一五〇トンでしたから、前述のイーペルでの初実戦とほぼ同じ量です。
一九一五年には、塩素に次ぐ窒息剤であるホスゲンが実戦使用されました。最初に配備したのはフランス軍でしたが、最初に使用したのはドイツ軍です。同年一二月一九日、ヴィルチェにて、ドイツ軍は連合王国軍に対して、ホスゲンと塩素(合計八八トン)を同時に使用して攻撃しました。方法はやはりボンベからの放出でした。その後もホスゲンは致死性の化学剤として世界大戦で活躍し、同大戦での化学兵器による死者の実に八五パーセントがホスゲンによるものでした。
一九一六年七月には、世界初の血液剤(シアン化水素と塩化シアン)の実戦使用が、フランス軍によって行われています。しかし、血液剤の性質のところ(第5章115頁)で述べたように、揮発性が高く比重も小さくすぐに拡散して消えてしまうので、戦場で致死濃度に達するのは困難で、それほど大きな効果は得られませんでした。
この三か国以外で初めて化学兵器を使用したのが、エスタライヒ゠ウンガン二重帝国です。日付は一九一六年六月二九日、場所はイタリア東部のモンテ・サン・ミケーレで、対象はイタリア王国軍です。もうひとつ、この南部戦線での大きな化学戦を挙げるとすると、カポレット(現在はスロヴェニアのコバリド)の戦いです。この戦いでは、エスタライヒの要請を受けて、ドイツが援軍を派遣しています。その中に、化学者のオットー゠ハーン(Otto Hahn)も随行していました。彼は核分裂を発見(一九三八年)したことで有名ですが、ここでは化学の専門家として参戦しました。彼と同僚の化学者は、事前偵察により、化学剤が滞留しやすいために化学戦に最適な渓谷を見つけていました。そこで、戦闘初日(一九一七年一〇月二四日)の午前二時から、リーヴェンス投射器(第10章201頁)を用いて八九四本の化学筒を投射しました。それぞれの筒の容量は六〇〇ミリリッターで、充填された化学剤は窒息剤の塩素とジホスゲンでした。通常の戦闘では、歩兵部隊などの突撃の前、多くはまだ暗い早朝のうちに砲撃を加えるのですが、この戦いではその砲撃の開始時刻が六時四一分でしたので、その前に化学兵器による攻撃でイタリア軍に打撃を与えることを狙ったようです。この化学攻撃が効いたのか、この渓谷方面でドイツ・エスタライヒ連合軍は初日に二五キロメーターも前進することに成功し、この戦い全体でも大勝利を得ました。事前に戦場の偵察・分析を行い、化学兵器の使用に適した場所を見つけることで、その威力を最大限に活かした例です。
三つめの時期を画するのが、イペリットの登場です。塩素やホスゲンのように直接死者を出すことを目的とするのではなく、戦場を汚染することで敵の動きを制約するという役割を、化学兵器が担い始めたのです。使用したのは一九一七年七月一二日、場所はやはりイーペルです。散々な目に遭った場所ですね。そして、このイーペルで最初に実戦使用されたことから、イペリットという名前がつけられました。この散布の二週間後、七月三一日から第三次イーペル戦が開始されたことを考えると、やはり戦闘中に敵を殺害するというよりも、戦場を汚染しておく準備攻撃として使われたことがわかります。このことは、一九一八年三月二一日から始まったミハエル作戦にて、フランスのサン・カンタンの連合王国陣をイペリットで攻撃したときにも顕著になります。この攻撃の目的は、同地を汚染することにより、連合王国軍をそこから追い出すことを狙ったものでした。なお、この両方の戦いでのイペリットの使用は、どちらも砲弾によるものでした。イペリットはガスではなく、常温で液体ですので、ボンベから放出するという手段は使えず、投射器/砲弾/爆弾のいずれかの手段で使用することになります。
連合王国ではイペリットの生産が遅れたために、最初の実戦使用(一九一七年一一月、フランスのカンブレ)では、ドイツ軍から鹵獲したものが使われました。自国生産のイペリットを初めて使用したのは、一九一八年九月から始まる百日攻勢で、でした。この百日攻勢によって世界大戦が終結するので、最後の局面にようやく間に合った形となりました。
化学兵器の使用量はこの大戦末期には急増し、一九一七年の全使用量が三二五〇〇トンであったのに対し、最終年である一九一八年には六一〇〇〇トンに達しました(砲弾含めた量)。この大戦末期時点で、砲弾の中の化学砲弾の割合は、ドイツ軍で五〇パーセント、連合王国軍で二五パーセント、フランス軍で三五パーセント、合衆国軍で一五パーセントだったとされています。
以上で実戦使用例として採り上げた場所を、図51に示します。
「化学戦」という視点から見ると、世界大戦はもっとも大規模に化学兵器が使用された戦争となりましたが、いっぽうで世界大戦全体から化学戦を見ると、ごく一部を占めるにすぎません。世界大戦で消費された銃弾は五〇〇億発、爆薬二〇〇万トンと言われているのに対して、化学剤のそれは一二五〇〇トン(化学剤の正味量)にすぎませんでした。そして、化学戦で圧倒的に有利に立っていたドイツが結局敗戦したことからもわかるように、最終的な勝敗への貢献もそれほどなかったのが実情でした。人類の歴史上、もっとも大規模に化学兵器が使用された世界大戦であってもそうであった、ということはよく頭に入れておくべきでしょう。表17に、世界大戦における各国の化学兵器による推定死傷者数を示します。この死傷者数も、化学兵器が使用された規模を考えると少ないように思えます。世界大戦における戦闘は、後述の第二次世界大戦における機動戦と違い、塹壕戦であったことから、化学兵器の使用にはむしろ向いていると言えました。しかし、このように充分な効果が得られなかった理由は、いくつか考えられます。
ひとつには、散布の方法に問題があったこと。初歩的なボンベからの放出が「風まかせ」という難点があったことはすでにお話しした通りですが、それに代わる砲撃も、相当な数の砲弾を、狭い範囲に集中させない限り、致死濃度に達することはできませんでした。化学兵器の投射は、やはり爆撃のほうが効率がよいのです(第10章217頁)。また、戦術が敵兵の即死よりも汚染による足止めへと移行したときに、すぐに散ってしまう気体である窒息剤や血液剤よりも、「ガスではない化学兵器」である液体のイペリットのほうが持続性のゆえに優れていることが注目されました。これもボンベからの放出が廃れた一因です。
もうひとつは、対処法の急速な発展です。一九一五年に最初に塩素が使用された直後には、現場では、水や尿で濡らした布で口許を覆うていどの対処法しかありませんでした(尿の中の尿素が塩素と反応するため)。しかし、その後すぐにガスマスクが普及します。ガスマスクと言えば我々は化学戦をイメージしますが、実際には、鉱山などでの粉塵対策や、消防活動での煙対策として、一九世紀から使われていたものなのです。これにゴーグルを組み合わせ、フィルター部分に対象の化学剤に有効な成分を入れることで、化学戦の戦場でも活躍するガスマスクが誕生したのでした。このような装備が急速に普及したため、気体の化学兵器は防ぐことができるようになりました。むしろその装備をつけさせることで敵の兵士の活動を制限することが、化学兵器の役割となっていきました。そういう意味でも、吸入しないように気をつけていればよい気体の化学兵器(窒息剤や血液剤)よりも、皮膚を攻撃することで相手に全身の防御を強いる糜爛剤のほうがより効果的になってきたわけです。いっぽう、充分な対処ができなかったロシア軍に対しては依然として致死兵器としても有効であったことを、表17でロシアの死者数が群を抜いていることが如実に顕わしています。
また、表18に、世界大戦期における各国の化学剤の製造量を示します。ドイツの製造力が他を圧倒していたことがわかります。アメリカ合衆国はこの時期はまだ揺籃期であったこと、フランスはほかの生産が追いつかなかったことからシアン化物に頼ったこともわかります。
世界大戦が終結したあと、大戦中はそれどころではなかった欧州諸国の目は、ふたたび植民地のほうへと向けられました。たとえばイタリアは、世界大戦から遡る一九一一年から翌一九一二年までの伊土戦争によってオスマン帝国から奪ったものの、現地人の抵抗が激しくて海岸地帯の一部しか支配下に置けなかった、トリポリタニア、キレナイカ、フェザーンを、大戦後に改めて制圧し、支配下に置きました。このとき、限定的ではありましたが、航空機による化学兵器の投下が行われました。小規模な使用ではありましたが、このときの指揮官であったピエトゥロ゠バドリオ(Pietro Badoglio)将軍とロドルフォ゠グラツィアーニ(Rodolfo Graziani)将軍が、後述の第二次エティオピア戦争において大規模に化学兵器を使用することを考えると、その前哨戦であったと考えられなくもありません。また、スペインも、自身の植民地のモロッコにおいて、現地民を制圧するために、フランスから購入したホスゲンやイペリットを空襲にて使用しました。
しかし、これらの植民地戦争でもっとも大規模に化学兵器が使用された例と言えば、やはりイタリアによる第二次エティオピア戦争です。ここでは、それについてお話ししましょう。
エティオピアの北隣のエリトリアと南東隣のソマリア(イタリア領ソマリランド、現在のソマリアの一部)を獲得したイタリアは、それらに挟まれたエティオピアの保護領化を目指して一八九六年にエティオピアに侵攻しましたが、それは失敗に終わりました。しかし、その野望は潰えず、一九三五年に閣僚評議会議長となったベニト゠アミルカレ゠アンドゥレア゠ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini)のもと、同年からふたたびエティオピアに侵攻し、一九三六年には当時の政権を打倒し、占領下に置きました。これを第二次エティオピア戦争と呼びます。同戦争では、最初、指揮官はエミリオ゠デ゠ボーノ(Emilio De Bono)将軍で、その下で開戦時にソマリランド総督であった前述のグラツィアーニ将軍が南部戦線の指揮を執っていました。その後、ボーノ将軍はその消極的な姿勢から更迭され、後任としてやはり前述のバドリオ将軍が総指揮を執りました。両者は化学兵器の使用にも前向きでした。エティオピアは北にエリトリア、南東にソマリランドと、イタリア領に挟まれていることから、北部方面(エリトリア方面)からバドリオ将軍率いる部隊が、南部方面(ソマリランド方面)からグラツィアーニ将軍率いる部隊が、それぞれ侵攻しました。この第二次エティオピア戦争においては、一八九六年の侵攻で相手を侮って少数の部隊で失敗したことから、巨大な戦力に戦車・火砲・航空機など、近代的装備を大量に投入しました。それに加え、化学兵器も大規模に使用しました。
この戦争における化学兵器の使用は、ある意味理想的な条件下であったと言えます。というのは、使用対象であるエティオピア人が、化学防護装備を持っておらず、それどころか裸足の兵士も多かったからです。このときに主力となったイペリットは皮膚を侵す糜爛剤なので、それで汚染された戦場を裸足で歩くのですから、効果絶大であったことでしょう。反面、エティオピアはきわめて高温で、化学剤の中では蒸気圧が低く持続性の高いほうであるイペリット(第3章79頁)でも、短時間で蒸発してしまって、欧州などで使用する場合よりも持続性がずっと低くなってしまいます。
この戦争での使用方法は、砲弾もありますが、やはりその主役となったのは爆弾です。さすがはドゥーエ(第10章215頁)を生んだ国と言えます。その中でも主力は第10章(217頁)で紹介したC500T爆弾です。これはおもにカプロニCa.101爆撃機から投下されました。図52に、この戦争におけるC500Tの投下量の推移を示します。前述の通り二つの方面から侵攻したので、その二つの戦線に分けて示してあります。第二次エティオピア戦争自体は一九三五年一〇月三日から始まっていますが、北部戦線でC500Tが使われ始めたのが一二月二二日からで、これは一二月一五日から始まったエティオピア軍のクリスマス攻勢に対処するためだったことがよくわかります。そしてそのクリスマス攻勢が鈍化したあとにすぐに続いてイタリア軍の反撃・侵攻が行われ、それに合わせて化学爆撃が行われたので、図のように二月末までずっと投下量が多いままです。二月末というと、イタリア軍が決定的な勝利を得た第二次テンビエンの戦いが行われたときです。この戦いのあとの北部戦線は、ほぼ抵抗なしで進軍できたため、その間は図のようにC500Tの投下もぱったりと止んでいます。そして三月中旬から末まで「最後のピーク」がありますが、これは、三月末に北部戦線最後の大きな戦いであるマイ・ケウの戦いがあったため、そこに集結しつつあるエティオピア軍を攻撃する、準備攻撃です。この戦いのあとには、北部戦線での化学爆撃はありません。いっぽう、南部戦線では、北部に比べてずっと低調です。これは、北部戦線がC500Tに絞ったのに対して、南部戦線では、C500T以外にも、ホスゲンを充填した爆弾や、イペリット充填爆弾でもC500Tではないものを使用したことも理由のひとつです。しかし、それらを加えても全体的に少なく、化学戦の主戦場は北部戦線であったことがわかります。五月五日にはイタリア軍が首都を占領して戦争は終結しましたが、その後も、一九三九年まで、併合したエティオピア国内での抵抗勢力に対する化学爆撃は行われました。
第二次エティオピア戦争において化学兵器が果たした役割については、意見の分かれるところです。前述の通りもっとも効果的な敵に対して使われ、実際にエティオピア軍の被害が大きかったこと、エティオピア兵がそれをひじょうに恐れていたことから、勝利に大いに貢献した、と見る人もいます。いっぽうで、もともと戦車や航空機などの近代的装備に大きな差があったことから、化学兵器がなくても勝てたのでは、という観方もあります。このあたりの評価が定まらない理由のひとつは、当のイタリア軍が、自分たちの化学兵器の「戦果」をちゃんと評価しなかった(あるいは、それを後世に残さなかった)点にあります。
いずれにせよ、この戦争での遠慮ない化学兵器の使用は、植民地戦争という、人種差別的な側面があったればこそ、という観方もできます。この化学戦は、ほかならぬムッソリーニ自身が主導したことも判明しています。誰からも愛されるドゥーチェにも、こういう暗い側面があったのです。しかし、ここではっきり言っておきたいのは、イタリアが植民地戦争で化学兵器を使ったのは、ちょうど化学兵器が大々的に使われる時期と重なっていたからであって、もし連合王国やフランスが植民地を拡大していた時期に化学兵器を持っていたなら、躊躇なく使っていたであろうことは、間違いないでしょう。