第12章 各国での開発
化学兵器開発の要件
近代的な化学兵器を実用化し、本格的な実戦使用を最初に行ったのは、ドイツでした。時は一九一五年、世界大戦の真っ只中でした。その後、第二次世界大戦の終結まで、ドイツは化学兵器の開発を主導し続けました。その理由を考えることで、化学兵器を開発しうる要件が理解できます。すなわち、
・「化学的知見」その化学物質を人工的に合成できること
・「医学的知見」その化学物質が人体に与える影響を理解していること
・「工業力」その化学物質を大量生産できる工業的基盤があること
世界大戦期のドイツは、化学においても、医学においても、世界最高の科学力を誇り、世界を主導する立場でした。そして、化学工業力も世界一でした。そのドイツが化学兵器の開発を主導したのは、必然と言えましょう。
現代でも、化学兵器の開発にはこれらが必要とされますが、その様相は20世紀とはずいぶん変わってきています。まず、現在では、すでに多くの化学兵器が開発されて長い時間が経っており、それらに関しては「化学的知見」「医学的知見」は広く知られた情報であるということ。そして、「工業力」に関しては、今や化学工業は先進国だけのものではなく、多くの国が普通に自前でそろえているということ。また、どれだけの製造能力が必要なのかはどれだけの量の化学物質が必要かによるわけで、二度の大戦のときや冷戦期のように世界規模の戦争に備えて膨大な量を製造しようと思えば、大国が国を挙げて製造する必要があるものの、せいぜい地域紛争や自国民の弾圧に使うのであればそれほどの量は必要ありませんし、テロで使う量であれば、もっとずっと小規模の「工業力」で充分なわけです。さらに言えば、ある特定の個人を暗殺するのであれば、いっそう小規模な、「実験室的な」製造法でも構わないのです。
ドイツ
前節でお話ししたように、世界大戦期のドイツには、化学兵器を開発する要件がすべてそろっていました。そのドイツでもっともさかんに化学兵器が開発され、初の近代的化学兵器の実戦使用が行われたのは、当然の結果と言えるでしょう。そこで、本章では、まず近代的化学兵器の元祖とも言うべきドイツから見ていくことにしましょう。
一九〇六年に開発されたハーバー・ボッシュ法(Haber–Bosch process)は、窒素と水素からアンモニアを合成する方法ですが、この開発により、化学肥料の大量生産が可能となり、それによって農産物の収穫量が飛躍的に増大したことで、人類の食糧問題を解決することができました。まさに「人類を救った」科学技術です。同時に、火薬の原料としてもっとも重要な硝酸化合物の大量生産も可能とし、弾薬の供給にも巨大な貢献をしました。科学技術には常に多面性があることの典型例です。そして、この方法に名前を残す二人の科学者、ハーバーとボッシュは、ともに、化学兵器の開発においても中心的な役割を果たしました。人類を救った科学者が人類を殺戮する兵器を開発した、これまた典型例です。
フリッツ゠ハーバー(Fritz Haber)は、ドイツにおける化学兵器の開発の責任者となったとき、すでに世界で名高い化学者でした。その彼が、祖国への愛国心のため、全力で化学兵器の開発に取り込んだのです。第13章でお話しする近代的化学兵器の初の本格的な実戦使用(一九一五年四月二二日、イーペル)では、ハーバー自ら現場指揮をしました。しかし化学兵器の開発は多くの人から非難され、同じ化学者であった妻のクララは、抗議のために、その直後の五月二日に自殺しています。また、彼はもともとユダヤ人でしたが(若い頃にプロテスタントに改宗)、彼が殺虫剤として開発したツィクロンBは、のちにユダヤ人虐殺に使われました。彼は、世界大戦終結の年である一九一八年に、ノーベル化学賞を受賞しました。そしてまた、彼が所長を務めた皇帝ヴィルヘルム物理化学電気化学研究所(Kaiser-Wilhelm-Instituts für Physikalische Chemie und Elektrochemie)は、のち(一九五三年)に、彼の名前を冠して、マックス゠プランク協会フリッツ゠ハーバー研究所(Fritz-Haber-Institut der Max-Planck-Gesellschaft)と改称されています。
カール゠ボッシュ(Carl Bosch)は、化学者としてもノーベル化学賞を受賞(一九三一年)するなど大きな業績を残すいっぽう、経営者としても、現在も世界最大の化学工業会社であるBASF(Badische Anilin und Soda Fabrik)社の取締役を務めました。
二人とは別の化学者であるフリードリヒ゠カール゠ドゥイスベルク(Friedrich Carl Duisberg)は、経営者としてたいへんなやり手で、バイエル(Bayer)社に入ったあと、同社を急成長させました。また、彼は他社と共同で化学工業の利益団体(InteressenGemeinschaft、IG)を結成しました。そして、世界大戦期のドイツ陸軍の最高司令部で弾薬担当だったマックス゠ヘルマン゠バウアー(Max Hermann Bauer)大佐と個人的に親交が深いことを利用して、バウアーが化学兵器の導入を進めたときに、その供給体制をより「合理化」するためと称して、この利益団体が優先的に化学兵器を受注する体制を確立しました。一九一六年には、この利益団体は、「ドイツ染料製造企業利益共同体(Interessengemeinschaft der deutschen Teerfarbenfabriken)」という名前となりました。ボッシュのBASF社もこの共同体のひとつです。ここでは、世界大戦期の、同共同体の供給体制についてかんたんにご紹介しましょう。
バイエル社は、レヴァクーゼン(Leverkusen)の工場で、窒息剤のホスゲンからジホスゲンを製造する工程(第2章57頁)と、糜爛剤のイペリットの最終工程(第3章75頁)を行い、両者を化学剤として完成させました。そして、それを砲弾などに充填する工場を、レヴァクーゼンのライン川を挟んだ対岸のドルマーゲン(Dormagen)に建設しました。
ジホスゲンの原料としてバイエル社に供給するホスゲン(最終的な化学剤としても出荷されました)は、BASF社が製造しました。同社はもともとオッパウ(Oppau)にハーバー・ボッシュ法を用いたアンモニア工場を運営しており、そこで副生成物として一酸化炭素が大量に得られるので、それを利用してホスゲンを生成しました。ホスゲンはこの一酸化炭素と塩素とを反応させて生成するので(第2章57頁)、塩素の製造能力も強化しました。また、イペリットの最終工程で用いるチオジグリコールの製造もBASF社が担当し、バイエル社に供給しました。BASF社の本社であるルートヴィヒスハーフェン(Ludwigshafen)工場では、少量ですがイペリットの最終工程も行われました。
塩素の主な製造所として、ビッターフェルト(Bitterfeld)にあるグリースハイム・エレクトロン化学工場(Chemische Fabrik Griesheim-Elektron)が指定されました。同工場は、一九一五年から一九一八年の間だけで実に三四五〇〇トンの塩素を供給しました。
そこでつくられた塩素の一部は、北北西数キロメーターのヴォルフェン(Wolfen)に位置するアグファ(Agfa)社に送られました。アグファ社は嘔吐剤のジフェニルクロロアルシンとジフェニルシアノアルシンの製造を担当しました。両嘔吐剤の製造には、大量の塩酸を必要とするからです(第6章126頁)。
ジフェニルクロロアルシンとジフェニルシアノアルシンは、フランクフルトの西端のヘヒスト(Höchst、一九二八年までは独立した市で、同年にフランクフルトに編入)のヘヒスト染料製造所(Farbwerke Hoechst)と、フランクフルトの東端のマインクール(Mainkur、一九二八年まではフェッヘンハイム市の一部で、同年にフェッヘンハイムとともにフランクフルトに編入)のカッセラ・マインクール染料製造所(Cassella Farbwerke Mainkur)も製造を担当しました。ヘヒスト染料製造所は、ジホスゲンの製造も担当しました。
共同体が優先的に化学兵器を受注したのは、ドゥイスベルクの利益誘導によるものですが、その強引なやり方が結果的に、同時期の連合王国やフランスと比べて、はるかに統制が取れて効率的な、まさに「合理的」な供給体制を確立したのも事実でした。
共同体非加盟で化学兵器の製造を担当した会社としては、ドレスデンの北西に隣接するラーデボイル(Radebeul)のハイデン化学工場(Chemische Fabrik von Heyden)があります。同工場はホスゲンを製造しました。もう一社、ベルリン中心部から南東一三キロメーターに位置するアードゥラースホーフ(Adlershof)にあったリキュール・蒸留酒工場CAFカールバウム(Likör- und Spritfabrik CAF Kahlbaum)というアルコール製造会社で、世界大戦期には火薬のほかに催涙剤のブロモアセトンを製造したほか、イペリットを砲弾などに充填する工程も請け負っていました。
共同体加盟会社は、世界大戦後の一九二五年に、ひとつの会社、IGファルベン社(InteressenGemeinschaft Farbenindustrie AG)に統合されました。その会長に就任したのはボッシュです。IGファルベンは当時世界に君臨する比類なき化学工業会社で、ドイツ産業を支えるとともに、後述するように再開された化学兵器の開発・製造においてもドイツの屋台骨となったのでした。しかし、IGファルベンは第二次世界大戦後に解体され、そのもともとの構成会社に戻りました。これらの会社は現在でも健在であるものが多いです。
世界大戦後、大英帝国、フランス、イタリアなどと締結したヴェルサイユ条約(一九一九年、アメリカ合衆国は批准しませんでした)により、ドイツは幾つかの兵器の開発を禁じられましたが、その中には化学兵器も含まれていました。しかし、ヴェルサイユ条約で蚊帳の外にされたソヴィエト連邦がドイツと単独で講和したラパッロ条約(Vertrag von Rapallo、一九二二年)により、両国間で軍事協力の体制が成立したことで、禁止された兵器の開発再開への道が開かれました。化学兵器に関しては、一九二八年から一九三二年の間に、ソヴィエト連邦内のヴォリスク郊外にて開発が開始されました。この地は、のちに、ソヴィエト連邦における化学兵器開発の中心地になりました(255頁)。
一九三三年に国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、NSDAP)が政権を取ると、ソヴィエト連邦内での開発を打ち切り、国内で化学兵器を開発することとなりました。軍は巨額の費用を投じて、国内の大学・研究所に新型の化学兵器の開発を行わせました。しかし、そのように軍の支援を受けて開発を行った研究者たちが合成したどの化学剤よりもはるかに強力なものを、支援を受けていない、そもそも化学剤を開発しようともしていない一人の化学者が合成に成功しました。それが、第4章でご紹介したゲルハルト゠シュラーダーです。彼は、レヴァクーゼンにあるIGファルベンの化学工場(前述のようにバイエル社時代からの工場)で殺虫剤の研究をしており、その過程で「強力だが人間にも害が大きすぎて使えない」殺虫剤を開発しました。それがタブンとサリンだったのです。神経剤が殺虫剤として活用できるのは、植物は神経を持たないため、植物には無害で虫だけを殺す薬剤としては最適だからです。ただし、虫だけではなくすべての動物にとって有害なのですが。シュラーダーがしたことは、実にドイツ人らしい地道な方法で、ひらめきとは無縁のものでした。彼はまずフッ素を中心に、さまざまな元素を結合させた化合物をひとつずつ順番に調べていき、それをあらかた調べ終わったら、次は周期表を左に移動して硫黄を中心としたさまざまな化合物を虱潰しに、その次は周期表をひとつ左隣に移動してリンを中心としたさまざまな化合物を虱潰しに…を繰り返していったのです。彼が合成した化学物質は、リン系のものだけで二〇〇〇種類に及びました。気が遠くなるような単調な作業を、手を抜かずにきっちりこなしていったことで、この恐るべき神経剤に辿り着いたわけで、ここに偶然の要素は存在しないのです。「これぞドイツ人」と唸らせるような業績です。シュラーダーは、タブンとサリンの合成に成功したあと、IGファルベンのエルバーフェルト工場(現在はバイエル社の化学工場)内の研究室に移って研究を続けました。